まどろみのワルツ『さかなかなんだか?』所感。~ユメを泳ぐさかなに想いを馳せる~
皆様こんにちは、瀬口ねるです。
今回の記事は松浦果南ソロ曲『さかなかなんだか?』について。
ときめき分類学の分野において僕の専門はセクシー担当ですが、今回はどうしても可憐担当に想いを馳せてみたくなりましたので、筆を執らせていただいた次第です。
というのも、この『さかなかなんだか?』が衝撃的だったから。
だってそうでしょう、タイトルの時点では「おさかな天国」みたいなのを想像していましたから。
フタを開けてみたらとってもムーディなジャズ調の曲で、音楽に詳しくないんですけどワルツっていうんですかね、これ?(違ってたら教えてください)
これがすごく果南に合っているし、歌詞もまたすごくいい。
試聴もせず、スクフェスのタイトル画面もイヤホンを抜いていたのでBD6巻のリリースに合わせて完全に初対面というかたちでしたので、余計に不意打ちを喰らった感じです。
歌詞考察というよりも、こんな世界観を感じたというインプレッションのようなものになるかと思いますが、よろしければお付き合いくださいませね。
「夢」を見ますか?
あなたは夢を見ますか?
ここで言う「夢」は目標や希望などの意味での夢ではなく、睡眠しているときに見るほうのものです。
具体的に言うと、何かに熱中していた頃の夢を見るでしょうか。
小さい頃であったり、学生時代であったり、イマ現在だったり、心血を注いで熱中していたものの夢を。
突然の自分語りを申し訳なく思いますが僕は中学1年から高校3年までの6年間、部活動でソフトテニスをしていました。
当時「テニスの王子様」が大流行しており、その影響でテニスを始めたかったのですが硬式テニス部って基本的に中学校では無いんですよね。
始めた頃は顔面に向かって跳ね上がるサーブだとか、90°ほどカーブするような打球や、全然跳ねない打球を打てるってホンキで思ってたこともあります。(この思いはラケットを握り始めて1週間経たずに消えます)
6年間もやってたということもありそれなりに熱中もしていたし、僕の青春時代はテニス一色だったなと思い返せます。
でもまぁ努力の量と結果は比例しないというのはごもっともで、どれだけ頑張っても大した成果は出せないし、モチベーションも下がりっぱなしのまま結局終わってしまったので、単純に「失敗者」としての記憶しかありません。
テニスをしていたのはもう何年も前の話ですが、何年たった今でもあの頃のことを夢に見るんです。
大事なポイントでミスをしたときのこと、理不尽だったこと、最後の大会のこと…
僕は失敗者だったという自覚があるのでいつまでもこんな呪いみたいな夢を見るのかもしれませんが、こんな暗い話がしたいのではなくて「熱中していたものの夢を見るかどうか」というお話です。
「ユメ」と「海」、「スクールアイドル」と「さかな」
一旦、松浦果南の話をしましょう。
彼女は海が好きで、その海に潜ること、とくにダイビングはインストラクターとしての将来を見据えるほどに愛しています。
果南にとってダイビングの時間は、文字通り好きなものに身も心もどっぷり浸かれる時間です。
そして次に果南にとってのユメの話。
ラブライブでの優勝。それは全スクールアイドルが目指す夢でもあるし、高校1年のときにスクールアイドルとして活動することを手放した果南にとっては、再びAqoursとしていられることそのものが夢の時間でした。
スクールアイドルとして活動している時間もまた、彼女にとって好きなものに身も心もどっぷり浸かれる時間です。
この2つに共通しているのが、「いつまでもその時間は続かない」ことです。
ひとは陸上で生活するのが当然だし、機材のおかげで長時間の潜水は可能とはいえ永遠に海の中に潜ってはいられない。高校生を終えたらスクールアイドルとしてはいられない。
長い目で見たとき、この2つは明らかに「非日常」の出来事です。
この「非日常」の海を泳ぐために必要なのが、先程も申し上げた機材です。
海を泳ぐ自分を魚にしてくれるのがダイビングスーツであるなら、スクールアイドルの衣装はユメを泳ぐためのダイビングスーツなのでしょう。
どちらも「ひと」が作り出したもの。
スーツや機材を纏い海に潜っている間は「さかな」になれる。
衣装を纏い歌って踊っている間は「スクールアイドル」になれる。
どちらも、帰るべき「現実」がある、というものです。
まどろみの時間
話があっちこっちして申し訳ありません。
冒頭に取り上げた「熱中していたものの夢を見るかどうか」の話と歌詞を絡めて進行します。
僕は「失敗者」としての自覚があるのでトラウマじみた夢を今でも見ますが、果南は廃校を阻止できなかったということを除いては間違いなく「成功者」です。
果南はこの歌の冒頭で”さかなになれるかな”とうたいます。
つまり「眠ったら夢の中でさかな(スクールアイドル)になれるかな」という意味だと捉えました。
もう戻ってこない日々のことを夢でまた見たい、感じたい、全身で浸かってみたい。
そんなことを思いながら眠りについたのではないでしょうか。
彼女たちが全力で輝いた物語の光は”目を閉じたって眩しい”もののはずです。
曲が進むに連れて、ユメを泳ぐ”さかな”はどんどん深くへ潜っていきます。
好きだったユメの時間、ずっとこのまま潜っていたくなる時間。
心地よくて、夢うつつで、できることならずっとこのままでいたい。
自分が「さかな」なのか「かなん」なのか、一体どちら「なんだか」わからなくなるような曖昧で朦朧としている時間。
睡眠における「まどろみ」の時間にも似ています。
やがて曲の終わり、果南は”そんな気持ちのまま” 目を覚まします。
当然のことながら、果南は「ひと」です。
ずっと海に潜っていることも、スクールアイドルとしていられることも、眠っていられる時間も永遠ではない。
「ひと」である果南はそれをわかっているし、だからこそ「ユメ」の時間は尊い時間だと肝に銘じて生きている。
だからせめてユメの中だけは希望以外は何も持たないし、また明日眠りについたときにあのころの夢を見たい、現実を「ひと」として歩いていくために”この海で 明日も遊ぼう”、と願うのではないのでしょうか。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。